この度、生駒山修験公式ブログを始めました。
簡単ですが、生駒山修験の成り立ちを紹介いたします。
生駒山は山岳信仰の霊山として歴史が古く、記録上では、
日本書紀まで遡ります。
縄文時代には、既に山岳信仰の対象であったようです。
生駒山修験の始まりは、神仏習合による生駒山神道が基で、
生駒山神道は、興福寺の影響力が強かった三輪流神道と
醍醐三宝院の影響が強かった両部神道の一派であった
立川流の合流からなり、法相教学と真言教学を併せて、
当山派修験道の一派と成していました。
立川流では、半僧半俗を認め、神宮寺の社僧と承仕法主、
学侶以外の僧侶には妻帯を認めていたので、戒律に反する
邪法とされていましたが、今日、立川流を批判できるのは、
唐招提寺の律宗と延暦寺の山内塔頭だけだろうと思います。
生駒山修験の中核は、藤原家北家の流れを汲む興福寺の
出家者や生駒一族の各家により執り行われていましたが、
その頃は、興福寺の末寺であった都史陀山の大聖無動寺を
生駒山神道根本道場としていました。
室町時代に応仁の乱が起こると領主の生駒氏が居城を
尾張に移し、それに伴い大聖無動寺と生駒山神道の
活動も徐々に衰退し、行場と御神体を残すのみと
なりました。
延宝六年(1678年)、宝山寺開山湛海和尚が都史陀山の
行場再興を果たし大聖無動寺跡に宝山寺を建立しました。
正確に言うと、神域である生駒山の一角に、御神体の
一つである都史陀山はあるのですが、現在でも、信仰の
対象として都史陀山と生駒山双方の御神体に関する祭祀の
帰属問題は係争中です。
宝山寺建立後は、再び、三輪流神道が盛んとなり、江戸後期に
慈雲尊者により唱えられた真言律の影響が強い葛城神道が合流し、
生駒流神道として、新たな生駒山修験の興隆を果たしました。
明治元年(1868年)の神仏分離令により、生駒山宝山寺から、
三輪流神道と葛城神道が分離され、神宮寺と生駒流神道は、
事実上廃止され、真言律教学のみが残りました。
明治五年の修験廃止令により、生駒山修験は廃止されました。
明治二十年頃から、神道教義を除いた雑部密教と真言密教を
中心とした現在の生駒山修験として、興福寺党と醍醐三宝院党の
僧侶を中心に、修験の復活を模索し始めました。
明治四十年(1907年)より、宝山寺第十六世慧證和上が、
近衛家及び生駒氏各家より、生駒山修験の宗家と再興を
一任され、醍醐修験法流を以って、生駒山修験を中興しました。
以来、今日まで当山派醍醐三宝院党の法流を受け継ぐだけでなく、
興福寺党呪師部相伝の雑部密教と法相教学も兼学しています。