柱源神法の紹介⑨

 画像は、茨城県ひたちなか市の酒列磯前神社所蔵の
少彦名命画です。
この絵は思い出深く、富岡八幡宮の故富岡茂永宮司から、
カメラで写したアップ写真を戴いたことがあります。
向かって左下の岩の上にいる小人の神様が、日本では
酒造りと医薬の神である少彦名命です。
甘露酒や聖天浴酒供とも密接な関係があり、御神酒の
扱いは非常に大切です。
鑑真和上の戒律が来朝する以前は、仏前でも供物に
しており、両部修験神道では、現在でも供物にします。
不飲酒の戒律に関しては、議論の対立はあるものの
律に抵触する場合は控えた方が宜しいものと思います。

 柱源神法と酒造りは関係ないように思えるのですが、
重要な秘密が隠されています。
その一例として、男酒と女酒の違いを挙げておきます。
現在の日本酒醸造は、日本各地で概ね同じ行程だろうと
思いますが、古代では決定的に異なり、風味にも大きな
違いがありました。
古代日本では、精錬技術が低く鍛造も未発達な状態で、
鋭利な刃物が作れなかった時代には、樽などの木製の
酒造用具が作れず、酒造りに利用できる道具といえば、
壺や瓶の様な土器の焼物を使い酵母による発酵を利用
して酒造りを行いました。

酒を造る時に使う原料は、米と水が基本と成ります。
その他にも、果物や蜂蜜を使う場合もありますが、
御神酒の場合、米を主原料とする場所が多い様です。
先ず、玄米に近い米を粥状にしてから自然発酵させ、
どぶろくにして行く方法が男酒です。
生駒山で方術の修行をする男達が、この方法で酒を造り、
御神酒としていました。
別名、神農酒と伝わっています。
アルコ-ル度数の高い辛口の酒で、薬の一種です。
この方法とは違い蒸した玄米の様な米と元に成る種醪を
混ぜ合わせ自然発酵させながら、どぶろくにする
方法が、三輪山の女酒です。
別説では、山葡萄と蜂蜜で作る酒を女酒と言いますが、
一種の甘露酒です。
別名を醸酒と呼び、八岐大蛇を退治した時に使われた
酒と同じ製法です。
この醪に甘い酒を造る秘密があり、三輪山の秘伝です。
こちらは、巫女達が甘い酒を造り御神酒としました。
三輪山の御神酒は、噛み酒ではなく酵母による発酵です。
同じ様に思えるかも知れませんが、麹の使い方が全く
異なります。

賀茂氏は醸酒を御神酒にしますが、山神様に供えるので、
米麹を多く使い女人禁制にしたようです。
基本的に、山神様には田畑海の産物を供えました。
酒蔵で女人禁制にしていたのは、専ら賀茂氏の酒蔵であり、
酒の作り方を教えた神様が三輪氏とは異なるためです。

秦氏の場合、巫女達も酒造りを行い生駒山の御神体に
御神酒として供えました。
生駒山の御神体は、男山と女山に分かれていて、これが、
男酒(前鬼の御供)と女酒(後鬼の御供)の違いです。
秦氏の巫女が作る女酒は、蜂蜜を使い発酵させる方法で、
酒造りの系統は、牛頭天王派と稲荷派へ分かれますが、
灘と伏見の系統の違いになります。

御神酒にも系統の違う神様による造り方の流れがあり、
ここに柱源神法の流派も異なる一因があります。
機会があれば、酒神の特集を組みたいと思います。

少彦名命1-1

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柱源神法の紹介⑧

 画像は、奈良県御所市の三光丸クスリ資料館展示の
神農図です。
こちらの会社は歴史が古く、当山派修験の流れを汲む
南朝方の系図です。
御所市は、巨勢氏、葛城氏、賀茂氏、秦氏と所縁のある
土地柄で、修験史では重要な場所です。
柱源神法と神農の関係は重要で、当山派修験の柱源を
継承する場合、口頭試験の出題範囲となります。
その関係で詳しく紹介できませんが簡単に説明します。

 西暦649年以前からの習わしだとは思いますが、
神域や霊山の山中に分け入り、産物を収穫できるのは、
男に限られていた場所が多い様です。
逆に、女に限られる場所もあった様です。
この人達は、山に関する知識が豊富で山の仕来たりにも
詳しいのですが、この選ばれた男達の中でも、更に、
隋や唐からもたらされた知識である神農本草経を学び、
山中の草根木皮の収穫を専門に行う集団がありました。
この集団を神農党と呼びます。
神農本草経を捲ると最初に神農像が描かれていて、これが、
神農党と呼ばれる由縁との口伝です。

例えば、秦神農党、賀茂神農党、葛城神農党など各氏族には、
それぞれの特産物があり、朝廷へ租としても納めましたが、
互いに、これらの品物を物々交換していたそうです。
三輪氏のように少名彦命の関係で、神農党を設けない氏族も
ありました。

この神農党の頭は、山に入る時の初めである戸開けと
山を降りる戸閉に儀式を行い、その祭儀の一つが山中で
行う柱源神法式と成ります。
この場合、護摩ではなく供え物を奉げます。
祭儀の供え物は、一般的な場合、米、酒、塩、水ですが、
柱源では、米と水を使います。
結局、米と水で何が作りだせるのか、この部分が大事です。
この儀式を仏式にするか、方術式するか、古式にするか、
それぞれ違いはあるものの山の神に許しと感謝の儀式を
行います。
これ以上は、試験の出題に抵触するので説明できませんが、
ここまでの経緯に柱源神法の奥義が存在しています。
間の話を抜いてしまうとアッサリ簡単に結論は出ます。
柱源を学びたい方は、この間の話を確り考えて戴けば、
必ず奥義まで到達するように法式は組まれています。

 西暦649年、秦流柱源の祖である法道仙人が孝徳天皇に
乞われ病気平癒の祈祷により法験を顕わしました。
その際に用いた薬湯の生薬を調達したのが生駒山秦王党と
口伝されています。
法道仙人一行中にいた神農の末裔を称する唐人僧により、
絵図入りの神農本草経がもたらされる以前は、生駒山
秦王党と称していた様ですが、この故実を以って、
生駒山神農党へ改めたと口伝されています。

この唐人僧には、方術の方士説と仏教の法師説があり、
醍醐寺成身院の齋藤先生の説では、法道仙人とは、
唐から来朝した方士の僧名ではないかとの話です。
生駒山口伝では、播磨へ移住したのが天竺の法道仙人
ですが、渡部先生の話も、神戸市灘区周辺の六甲山へ
移住した天竺僧との話でした。
共通説は、三十三間堂に祭られる婆藪仙人のモデルは、
西域から玄奘三蔵と旅を共にした仏教僧の法道仙人です。
生駒山神農党では、西暦649年に秦流柱源の儀式を
行って以来、約1374年間の歴史を重ね現在に至ります。

次回は、余り知られていない柱源と酒神の関係を綴ります。

神農図2 (2)-1

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柱源神法の紹介⑦

 画像は、金峯山櫻本坊の重要文化財役行者像です。
宝山寺在職中、櫻本坊にご挨拶に伺った際、ご本尊に
参拝させて戴き、とても感慨深いものがありました。
鎌倉時代の仏像ですが、役行者の特徴がハッキリ、
分かります。
前鬼と後鬼が揃うと更に深い所まで分かりますが、
神仏分離の線引き上のこともあり非常に残念でした。
その昔、それぞれの行者像には名を付していましたが、
時代が下るにつれ名が忘れ去られ、単に役行者像と
して伝わるようになりました。
その代表例です。
では、先入観なしで、下の画像を確り見て下さい。

 先ず、西暦650年から702年までの出来事です。
この当時の社会情勢や風俗の肉付けをして行くと、
第一に、経文の書かれた紙の巻物は殆どありません。
この当時の経文の巻物の殆どが唐渡物で、僅かな
有力大寺だけしか保有していないが実情です。
賀茂役君が元興寺から授けられたのは、紐で括った
竹閑に書かれた易経と般若心経の末尾にある梵文を
漢字にしたものと柱源口伝があります。
元興寺造営に当たり、賀茂一族へ感謝の印として
授与したそうです。

次に、小角行者にあるトレ-ド・マークの額にある
小さな角のような出っ張りがありません。
つまり、この像は賀茂役行者小角ではなく、宗家の
賀茂役君大角行者か法道仙人と見受けられますが、
この尊像の造立された当時の金峯山は当山派であり、
法道仙人一行を日本へ案内した中国人僧で、薬草の
知識をもたらした方の姿絵を模した尊像の可能性が
高くなります。
この中国人僧は、神農の末裔と称され神農本草経を
携え、法道仙人一行として来朝し元興寺に逗留後、
高取の方へ移られた賀茂役君大角行者の師匠との
柱源口伝があります。
この方の伝えた知識は、黄檗を主原料にした薬で、
大和国を中心に製薬の技術が広まりました。
生駒山神農党の始まりが、この頃と口伝されています。

一般的に間違えられているのは、大角は父親ではなく、
母家(本家)の御父様(おもうさま)です。
大角は、賀茂役君(かものえんのきみ)で、朝廷に
仕える官人ですが、小角は分家に出た一般人です。
この賀茂役君大角が、功績により朝廷から高加茂朝臣を
賜り陰陽道の賀茂家となります。

更に、この尊像は、袈裟を付けず剃髪していますが、
僧装束は三十三間堂の婆藪仙人と粗同じです。
袈裟を付けていない場合は、官僧ではなく私度僧ですが、
私度僧でありながら剃髪しているので優婆塞では
ありません。
これらを総合的に考え合わせると賀茂一族に薬草と
漢文の知識をもたらした師匠像ではないかと思います。

役行者を理解する上で、薬草という意外な事実を見逃すと、
実像から懸け離れた存在として扱われてしまい山岳修業の
目的が全く違ったものと成ります。
この薬草と柱源神法の密接な関係は、賀茂役君と秦役君の
関係を理解するのに不可欠な要素でもあります。
その話は別の機会に回すとして、金峯山から熊野にかけて、
貴重な薬草の自生地でした。
伊吹山、御嶽山、白山、出羽三山、比叡山周辺も同様です。
修験の行場と貴重な薬草の自生地は、概ね同じ場所です。

次回は、少しだけ神農と柱源の密接な関係を解説したいと
思います。
気持ち的には、智証大師の話に入りたいのですが、聖護院の
増誉大僧正と延暦寺との複雑な関係を説明しなければならず、
伝教大師の正当な継承を巡る山門派と寺門派の対立問題を
含みます。
機会があれば特集を組みます。

役行者2 -1


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08 : 58 : 12 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑

柱源神法の紹介⑥

 画像は、キンベル美術館所蔵の役行者像です。
これから、役行者について解説を進めますが、
仏像には、それぞれ、込められた願いがあり、
その願いは、様々な形として表現されています。
仏像の表す様々な形が参拝者の心に伝わると
意外なことに気が付きます。
この一種の閃きの様な感覚が、仏像の持つ不思議な
魅力でもあります。
先ず、この話を進める前に、醍醐寺成身院の
齋藤明道先生から伺った話を例に進めます。
齋藤先生は、醍醐聖天党と醍醐山清瀧党に推薦を
して下さいました恩師です。

 下の尊像を先入観なしでジックリご覧ください。
すると、ある疑問が生じます。
「この風変わりな装束の仏像は、誰なのか?」
通説では、役行者とされています。
「左手に持つ巻物には、何が書かれているのか?」
通常は、経文だろうと思います。
年代により多少の差異はありますが、役行者像の
典型的なタイプは、この形式です。
良く見ると頭巾姿は、婆藪仙人と良く似ていて、
役行者像の多くは、この婆藪仙人がモデルです。
とりあえず、知りたくなるのは、
「この姿を役行者と見なす根拠は何処ですか?」
実は、この疑問点が柱源神法の口頭試験問題の
一部です。

初めて、役行者像をジックリ見たのは石山寺の尊像で、
前鬼後鬼の有無は違いますが同じ型式の行者像です。
齋藤先生からの出題は、石山寺の役行者像を参拝して、
感想を述べるようにとの口頭試験でした。
この時、石山寺の御厚意で特別に尊像を参拝させて
戴けました。
当山派の柱源を継承するには、基本的な知識に加え、
ある種の閃きで気付かないと不合格になります。
ところが、これだけでは済まず更に別の難関が待ち
受けている非常に狭い門です。
内心は、初伝なら無試験の方が良いと思っています。

 さて、先入観を捨て、次の問題が解けると答えが、
明確になります。
「この尊像は、賀茂役君ですか、秦役君ですか。」
人によっては、葛城役君との回答もあり得ますが、
理由を付けて説明できれば、葛城役君でも正解です。
柱源の祖師である法道仙人の姿を模倣するのは、
秦流と賀茂流が中心で、葛城流もありえます。
残念ながら、葛城流柱源の話は伝わっていないので、
葛城流のことは明確に分かりません。
この時代の中臣方と三輪方は、先祖伝来の信仰に
対する姿勢を変えていないので僧形を真似しません。
しかも三輪方は山岳修業ではなく、御神体の山を
参拝する修行方法です。

役とは租庸調の歳役を指すもので、君は姓(かばね)、
有力豪族に課せられた公役を束ねていた一族の長を
君と称しますが、この方は官職に就いた官人です。
役行者とは、公役を行う者との意であり、この中には
一般人も含まれています。
そこで、問題と成るのは、役君は僧装束まま山中で
何をしていたのか、この疑問が山場となります。
次回は、この続きから始めます。

役行者5

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08 : 30 : 36 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑

柱源神法の紹介⑤

 画像は、三十三間堂で二十八部衆の一尊として
祭られる婆藪仙人です。
三十三間堂は天台宗寺院、正式名称は蓮華王院です。
この仏像のモデルは、法道仙人であるとの口伝が、
生駒山に伝わっています。
その経緯を紹介しましょう。

 法道仙人直伝の柱源法流は、大きく分けると
元興寺相伝と他家相伝に分かれます。
秦流方術は法道仙人直伝で、中臣方と三輪方は元興寺
道昭法師相伝です。
大きな違いは、易占に仏教的な解釈を多く加えるのが
元興寺相伝、道家的な解釈の多いのが秦流柱源の
特徴です。
実は、この相伝に少々複雑な問題が絡んでいて、
賀茂役君小角行者の相伝は、法道仙人直伝なのか、
元興寺道昭法師相伝なのか、ハッキリしない点が
あります。
この違いが時代と共に進むと、三宝荒神、蔵王権現、
金剛童子の感得の問題が絡み、祭儀の法式に大きな
違いを生じたため流派問題が起きます。
例えば、当山派では、何故、蔵王権現でなく金剛童子を
役行者感得にするのか、三宝荒神を感得したのは誰か、
牛頭天王と法道仙人の関係は何処にあるのか等々あり、
神仏習合に大きな影響を及ぼしています。

 道昭法師が唐から帰朝した斉明天皇6年前後頃、
西暦660年頃になりますが、唐から持ち帰った紙、
硯、墨、筆を用いて、柱源の祖である法道仙人の
姿絵を描いたそうです。
その姿絵は、秦流方術を極め仙人と認められる験力の
持ち主だけに、秦流柱源の祖師の姿絵を明かし免許
皆伝の証としました。
秦流方術では、以心伝心による口伝伝授が基本であり、
印信や折紙はありませんが、この絵は例外的な扱いです。
伝教大師も秦流柱源の免許皆伝に成りましたので、
秦宗家から写絵を授けられ、延暦寺では柱源法流の
相伝者のみが、この写絵を見ることが許される秘中の
秘とされていました。

後白河天皇が、三十三間堂を建立する際、婆藪仙人の
モデルを法道仙人にしたのは、後白河天皇が秦流柱源の
奥義を会得されたので、法道仙人の写絵をご覧になり、
祖師を婆藪仙人になぞられ仏像を造立されました。
それ故、秦流柱源を修めた者は、法道仙人と同体である
三十三間堂の婆藪仙人を参拝する習わしとしました。
法道仙人一行は複数人いたので、誰が法道仙人なのか、
三十三間堂の婆藪仙人を参拝しない限り祖師の尊顔を
知らない訳です。

ここで、流派の大問題が生じます。
三井寺相伝の柱源は、誰を祖としているのか、
この点が修験の定義に大きな影響を与えます。
開祖が、賀茂役君小角行者だとすれば賀茂流です。
本山派修験の開祖は、賀茂役君小角行者となりますが、
当山派の柱源は、元興寺道昭法師が開祖であり、
秦流柱源の開祖は、法道仙人となり、それぞれに、
流派の開祖は異なります。
修験を柱源法流で捉えた場合、賀茂役君小角行者の
存在意義は、流派により自ずと異なります。
次回は、役行者の解説に入りたいと思います。

婆藪仙人1 (2)-1

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08 : 40 : 47 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑

柱源神法の紹介④

 画像は、法華山一乗寺所蔵の国宝最澄像です。
この法華山一乗寺の開山は、法道仙人です。
伝教大師の柱源伝承を知らずに修験は語れないので、
柱源諸家の口伝と生駒山との関係を紹介します。

 道昭法師の入唐を援助した加茂宗家、三輪宗家、
秦宗家には、それぞれ、柱源が伝わり、賀茂家の
相伝は、独自の工夫を重ねながら家伝の易占として、
門外不出とした後、他の占いも取り入れ陰陽道へと
発展させました。
賀茂流の系譜は、陰陽道だけでなく神道と修験にも
及び、別々に分類するには境界が曖昧なので判断の
難しい面があります。

三輪宗家の相伝は、独自の工夫を加え法相教学と
融合させながら三輪山流神道へと発展させました。
中臣方相伝も三輪山流に合流しています。
醍醐寺へ相伝した水輪は三輪方とされています。
現在、生駒山修験にも相伝されています。

秦宗家の場合、他家の相伝とは違い口伝や独自の
工夫を加えず、仙人から相伝されたまま秦流方術の
易占術の一つとして伏見大社と松尾大社にも相伝
させました。
法道仙人は、玄奘三蔵から教えを受けたとされ、
玄奘三蔵が学んでいたのは、道家の流れを汲む易術で、
用いる水輪は、玄奘三蔵が旅先で使っていたものと
同じ型式との口伝です。
生駒山修験でも、形を変えず方術のまま相伝しています。

秦流方術の聖地は、生駒山を本拠地にしていたので、
法力随一の千里眼と言われた生駒山の秦仙人が、
秦流柱源を伝教大師に伝授すると大師相伝の流れは、
叡山門外不出の秘伝とされました。
伝教大師は瞬く間に秦流柱源の奥義全てを会得したと、
生駒山には伝わっています。

伝教大師は、聡明で人徳に優れ、特に薬草の知識と
易には非凡な才があったとされ、秦宗家が次期入唐の
人材として援助していました。
大師が入唐した際、寒冷地でも実る米を日本へ持ち帰り、
その恩恵は、今日に至るまで続いています。
入唐費用の殆どを新種米探しに当ててしまい天台山への
手土産は僅かだったそうですが、易の深い知識により、
天台山の衆僧から大歓迎され尊敬を集めたそうです。
大師の帰朝後も天台山から再度の来山を乞われるほど、
伝教大師への崇敬の念は止みませんでした。

残念ながら、伝教大師直伝の柱源は、織田信長の叡山
焼き討ちで、全て焼失しました。
叡山では、この伝教大師直伝の秘術を受け継ぐ者は、
山門を出てはならない掟があり、相伝者は誰一人逃げず、
小坊主までもが法華経を唱えながら、燃え盛る御堂と
運命を共にしたと口伝されています。
生駒山修験は、叡山と織田方の生駒家を通じて、双方に
和睦を説得しましたが、功を奏さず惨憺たる結果と成り、
この出来事の口伝が伝承されています。
機会があれば、叡山焼き討ち当日の様子を綴りたいと
思います。
次回は、法道仙人の逸話を紹介します。

最澄1 (2)-1

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09 : 14 : 25 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑

柱源神法の紹介③

 画像は、元興寺の道昭法師像です。
この方は、玄奘三蔵の愛弟子で行基菩薩の師でもある
高僧です。
柱源法流の祖としても過言ではないので修験の祖でもあり、
賀茂役君小角行者達の仏道修行における師でもあります。
この関わり合いを知ると理解が進み修験を知る手がかりを
得られます。
この時代には、複雑な背景があるにも拘らず歴史的資料が
限られているので、口伝を交えて解説したいと思います。

 道昭法師についての詳細は、続日本紀の文武天皇4年
3月己未の記載をご覧頂くと大凡の人物像が分かります。
その記載には、三蔵法師が見ず知らずの日本人僧を歓待し
厚遇した理由が示されています。
三蔵法師が天竺へ向かう途中、飢え死にしそうな時に、
三蔵法師を助けた西域の沙門と道昭上人は、同じだと
語っています。
この記述だけでは、三蔵法師に梨を食べさせた沙門と
道昭法師を同一視する理由が示されていないので話の
筋が通じません。
しかし、柱源口伝では、その西域の沙門が法道仙人です。
つまり、法道仙人の弟子の一人が道昭上人です。
この口伝は、道昭法師が愛弟子の一人に秘事を明かした
際の話とされ、柱源の伝授では、深沙大将の口伝と共に
授けられます。

道昭法師が遣唐使として入唐する際、私的にも莫大な
費用が必要でした。
私的に必要な費用を援助した中心が、秦一族、賀茂一族、
三輪一族です。
賀茂一族が水銀と水晶、秦一族は扶桑の秘薬である髭ゴボウ、
三輪一族が玉虫を唐の皇帝に献上して、その挨拶の文面に、
徐福の弟子である子孫が、唐の天子に約束を果たしますので、
遣唐使一行の便宜を図る様にとの懇願をしたそうです。
この挨拶状が唐の皇帝を大層喜ばせ、道昭法師は唐の皇帝と
謁見を果たせました。
この席で、法道仙人一行の赦免を願い出て許されたと
伝わっています。
法道仙人一行は、唐の皇帝の許しなく出国していたので、
唐では異国人の密入国者として追われていましたが、
この件を無事に解決して三蔵法師を喜ばせたのです。
道昭法師を援助した秦宗家、加茂宗家、三輪宗家には、
それぞれ柱源が伝わり、秦宗家の相伝が後の伝教大師へ
相伝されます。
次回は、法道仙人の人物像を解説する前に、伝教大師に
関する口伝と逸話を紹介しましょう。

道昭法師2-1

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柱源神法の紹介②

 画像は、当院で祭る柱源神法の水輪です。
この水輪は、修験の最奥義を示し森羅万象全ての事象を
表すとされています。
少し大袈裟な言い方ですが、その理由を簡単に説明します。

 本来は、修験の定義を先に述べなければなりませんが、
とりあえず、柱源神法の概要だけでも知らないと、修験の
定義から逸れて真理の理解を失います。
修験の理解は、人が生きて行くための信仰と知識に他なり
ません。
残念ながら、修験の始まった当時の様子を記す古文書が
乏しく、学術的な証明は難しいのですが、残されている
伝承を頼りに、修験の一端を紐解く事から進めて見ましょう。

 先ず、修験とは何かといえば、辞書を引くと、呪法を
修め効験を顕わすために山野を歩き回り、霊験のある法を
修め効験を顕わすこととあります。
この解説でも誤りではないのですが、霊験のある呪法や
霊力のある山野の歩き方とは何を指すのか、国語辞書では
不明です。
では、そのルーツは、何処にあり、どの様な呪法を指すのか、
具体的に言えば、その起源は、天竺から唐に渡る大陸の様々な
知識であり、仏教の説く因縁果の理法を道家の易で解説した
呪法に、朝廷から認められていた各一族が祭祀していた神道で
解釈を加えた宗教観が、当時の朝廷が認めていた修験の源流
である柱源法流の始まりになります。

柱源には、易占法と祭儀があり、朝廷から許された人のみが、
元興寺か興福寺で学ぶことを許されました。
平安時代に入り、その学問の大きな一派として飛躍したのが、
賀茂宗家の陰陽道と足利学校で採用されていた真言易です。
南北朝時代に入り、当山派が分裂すると法相宗では柱源神法が
廃れ、柱源占法は興福寺相伝の易学として発展を遂げました。
醍醐寺では、祭式の柱源神法が修験の中心となりました。
少し難しい言い方をしましたが、外国の知識や宗教の導入には、
細心の注意を払っていたのが、その当時の実情です。
現在でも、真言宗醍醐派と法相宗各寺院を含めた当山派修験で、
柱源を知る人は少なく、柱源神法は知っていても、柱源占法を
知る人は殆どいないのが実情です。
これは、全て、口伝の伝承しか許されていないので、一般的な
周易とは異なり、当山派では御止め流のまま相伝しています。
本山派では、織田信長の叡山焼き討ち以降、伝教大師相伝の
易占法が廃れていると聞き及んでいます。
意外な話ですが、柱源占法の大家と言えば、松下電器の創業者
松下幸之助さんでした。
次回の掲載で、もう少し解説を進めて見ようと思います。

柱源水輪1-1

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柱源神法の紹介①

 画像は、当院で祭る柱源神法の荘厳です。
柱源神法について質問を戴いたので、この場で紹介します。
柱源神法の法具は、殆ど見かけないと思います。
当院では、ご覧の通り護摩は焚けないので、柱源神法の理護摩供を
修法します。

この法具は、特別誂えで京都の上田法衣仏具店で扱っています。
主に天台系が使用する金属製の水輪は、修験専門店の林勘法衣店で
扱っています。
当院の柱源法具は、上田仏具の試作第2号で、第1号は宝山寺の
吉田弘道総務部長が自坊で祭っています。
伝法学院や上醍醐寺の水輪をモデルに黒の漆塗りにしていますが、
水輪の中には、朱色の根来塗もあります。
中西哲玄元伝法学院院長によれば、水輪は自作せよとのことです。

修験章疏を読む限り当山派と本山派では、供養法次第が違うように
思えますが、基本的な根幹部分は同じです。
解釈は、それぞれ異なります。
当山派次第の方が密教的色彩の濃い雑部密教です。
原型に近いのは、本山派の次第だと思います。
生駒山の口伝では、天竺から渡来した法道仙人が孝徳天皇に祈祷を
乞われ、元興寺に逗留した縁で、元興寺の弟子だった小角行者に、
柱源の奥義を授けたとされています。
この方は、賀茂役君大角行者の従弟で、後に、生駒山麓一帯を治める
秦一族の長の婿養子に成ったと伝わっています。
賀茂役君大角行者の末裔は、後に陰陽家の賀茂氏になります。
この時代は、紙の生産量が乏しく、木閑や竹閑に文字を記していましたが、
専ら口伝による継承が殆どです。
賀茂氏に伝わる伝承口伝は、信用性が高いと思います。
柱源口伝では、箕面の滝に於いて、法道仙人が小角行者に、龍樹菩薩の
秘伝を授けたそうです。
この小角行者の正式名は不明ですが、小角兄弟の一番末の弟であると
伝わっています。
この為、柱源神法の元となる理論は、元興寺から始まり、次第に、
雑部密教として法相宗の呪師部が継承するようになりました。
龍樹菩薩の秘伝とは柱源潅頂とされていますが、実際は、唐から伝わった
道家の易占だったそうです。
この流儀は、後々、播磨地方の陰陽師へと相伝されているとの口伝です。

柱源神法1-1

テーマ:同人活動 - ジャンル:サブカル

18 : 32 : 59 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑
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プロフィール

上村俊顕

Author:上村俊顕
生駒山修験中興第三世宗家座主
生駒聖天党法呪師部大阿闍梨位
醍醐山清瀧党法務
生駒山宝山寺八王子分院
施法院院主                

生駒聖天党の灌頂大阿闍梨と
法務を兼務しています。
醍醐山清瀧党の法務担当です。
プロフィール写真は、清瀧党の
中でも雙龍秘伝を授けられた
者のみが許される印です。
得意は、歓喜天浴酒供です。
当山派生駒山流両部修験神道の
宗家と座主を兼務する傍ら、
柱源法流を受け継ぎ、秦流方術の
広報と興隆にも力を入れています。

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