画像は、元興寺の道昭法師像です。
この方は、玄奘三蔵の愛弟子で行基菩薩の師でもある
高僧です。
柱源法流の祖としても過言ではないので修験の祖でもあり、
賀茂役君小角行者達の仏道修行における師でもあります。
この関わり合いを知ると理解が進み修験を知る手がかりを
得られます。
この時代には、複雑な背景があるにも拘らず歴史的資料が
限られているので、口伝を交えて解説したいと思います。
道昭法師についての詳細は、続日本紀の文武天皇4年
3月己未の記載をご覧頂くと大凡の人物像が分かります。
その記載には、三蔵法師が見ず知らずの日本人僧を歓待し
厚遇した理由が示されています。
三蔵法師が天竺へ向かう途中、飢え死にしそうな時に、
三蔵法師を助けた西域の沙門と道昭上人は、同じだと
語っています。
この記述だけでは、三蔵法師に梨を食べさせた沙門と
道昭法師を同一視する理由が示されていないので話の
筋が通じません。
しかし、柱源口伝では、その西域の沙門が法道仙人です。
つまり、法道仙人の弟子の一人が道昭上人です。
この口伝は、道昭法師が愛弟子の一人に秘事を明かした
際の話とされ、柱源の伝授では、深沙大将の口伝と共に
授けられます。
道昭法師が遣唐使として入唐する際、私的にも莫大な
費用が必要でした。
私的に必要な費用を援助した中心が、秦一族、賀茂一族、
三輪一族です。
賀茂一族が水銀と水晶、秦一族は扶桑の秘薬である髭ゴボウ、
三輪一族が玉虫を唐の皇帝に献上して、その挨拶の文面に、
徐福の弟子である子孫が、唐の天子に約束を果たしますので、
遣唐使一行の便宜を図る様にとの懇願をしたそうです。
この挨拶状が唐の皇帝を大層喜ばせ、道昭法師は唐の皇帝と
謁見を果たせました。
この席で、法道仙人一行の赦免を願い出て許されたと
伝わっています。
法道仙人一行は、唐の皇帝の許しなく出国していたので、
唐では異国人の密入国者として追われていましたが、
この件を無事に解決して三蔵法師を喜ばせたのです。
道昭法師を援助した秦宗家、加茂宗家、三輪宗家には、
それぞれ柱源が伝わり、秦宗家の相伝が後の伝教大師へ
相伝されます。
次回は、法道仙人の人物像を解説する前に、伝教大師に
関する口伝と逸話を紹介しましょう。
画像は、当院で祭る柱源神法の水輪です。
この水輪は、修験の最奥義を示し森羅万象全ての事象を
表すとされています。
少し大袈裟な言い方ですが、その理由を簡単に説明します。
本来は、修験の定義を先に述べなければなりませんが、
とりあえず、柱源神法の概要だけでも知らないと、修験の
定義から逸れて真理の理解を失います。
修験の理解は、人が生きて行くための信仰と知識に他なり
ません。
残念ながら、修験の始まった当時の様子を記す古文書が
乏しく、学術的な証明は難しいのですが、残されている
伝承を頼りに、修験の一端を紐解く事から進めて見ましょう。
先ず、修験とは何かといえば、辞書を引くと、呪法を
修め効験を顕わすために山野を歩き回り、霊験のある法を
修め効験を顕わすこととあります。
この解説でも誤りではないのですが、霊験のある呪法や
霊力のある山野の歩き方とは何を指すのか、国語辞書では
不明です。
では、そのルーツは、何処にあり、どの様な呪法を指すのか、
具体的に言えば、その起源は、天竺から唐に渡る大陸の様々な
知識であり、仏教の説く因縁果の理法を道家の易で解説した
呪法に、朝廷から認められていた各一族が祭祀していた神道で
解釈を加えた宗教観が、当時の朝廷が認めていた修験の源流
である柱源法流の始まりになります。
柱源には、易占法と祭儀があり、朝廷から許された人のみが、
元興寺か興福寺で学ぶことを許されました。
平安時代に入り、その学問の大きな一派として飛躍したのが、
賀茂宗家の陰陽道と足利学校で採用されていた真言易です。
南北朝時代に入り、当山派が分裂すると法相宗では柱源神法が
廃れ、柱源占法は興福寺相伝の易学として発展を遂げました。
醍醐寺では、祭式の柱源神法が修験の中心となりました。
少し難しい言い方をしましたが、外国の知識や宗教の導入には、
細心の注意を払っていたのが、その当時の実情です。
現在でも、真言宗醍醐派と法相宗各寺院を含めた当山派修験で、
柱源を知る人は少なく、柱源神法は知っていても、柱源占法を
知る人は殆どいないのが実情です。
これは、全て、口伝の伝承しか許されていないので、一般的な
周易とは異なり、当山派では御止め流のまま相伝しています。
本山派では、織田信長の叡山焼き討ち以降、伝教大師相伝の
易占法が廃れていると聞き及んでいます。
意外な話ですが、柱源占法の大家と言えば、松下電器の創業者
松下幸之助さんでした。
次回の掲載で、もう少し解説を進めて見ようと思います。