柱源神法の紹介⑦

 画像は、金峯山櫻本坊の重要文化財役行者像です。
宝山寺在職中、櫻本坊にご挨拶に伺った際、ご本尊に
参拝させて戴き、とても感慨深いものがありました。
鎌倉時代の仏像ですが、役行者の特徴がハッキリ、
分かります。
前鬼と後鬼が揃うと更に深い所まで分かりますが、
神仏分離の線引き上のこともあり非常に残念でした。
その昔、それぞれの行者像には名を付していましたが、
時代が下るにつれ名が忘れ去られ、単に役行者像と
して伝わるようになりました。
その代表例です。
では、先入観なしで、下の画像を確り見て下さい。

 先ず、西暦650年から702年までの出来事です。
この当時の社会情勢や風俗の肉付けをして行くと、
第一に、経文の書かれた紙の巻物は殆どありません。
この当時の経文の巻物の殆どが唐渡物で、僅かな
有力大寺だけしか保有していないが実情です。
賀茂役君が元興寺から授けられたのは、紐で括った
竹閑に書かれた易経と般若心経の末尾にある梵文を
漢字にしたものと柱源口伝があります。
元興寺造営に当たり、賀茂一族へ感謝の印として
授与したそうです。

次に、小角行者にあるトレ-ド・マークの額にある
小さな角のような出っ張りがありません。
つまり、この像は賀茂役行者小角ではなく、宗家の
賀茂役君大角行者か法道仙人と見受けられますが、
この尊像の造立された当時の金峯山は当山派であり、
法道仙人一行を日本へ案内した中国人僧で、薬草の
知識をもたらした方の姿絵を模した尊像の可能性が
高くなります。
この中国人僧は、神農の末裔と称され神農本草経を
携え、法道仙人一行として来朝し元興寺に逗留後、
高取の方へ移られた賀茂役君大角行者の師匠との
柱源口伝があります。
この方の伝えた知識は、黄檗を主原料にした薬で、
大和国を中心に製薬の技術が広まりました。
生駒山神農党の始まりが、この頃と口伝されています。

一般的に間違えられているのは、大角は父親ではなく、
母家(本家)の御父様(おもうさま)です。
大角は、賀茂役君(かものえんのきみ)で、朝廷に
仕える官人ですが、小角は分家に出た一般人です。
この賀茂役君大角が、功績により朝廷から高加茂朝臣を
賜り陰陽道の賀茂家となります。

更に、この尊像は、袈裟を付けず剃髪していますが、
僧装束は三十三間堂の婆藪仙人と粗同じです。
袈裟を付けていない場合は、官僧ではなく私度僧ですが、
私度僧でありながら剃髪しているので優婆塞では
ありません。
これらを総合的に考え合わせると賀茂一族に薬草と
漢文の知識をもたらした師匠像ではないかと思います。

役行者を理解する上で、薬草という意外な事実を見逃すと、
実像から懸け離れた存在として扱われてしまい山岳修業の
目的が全く違ったものと成ります。
この薬草と柱源神法の密接な関係は、賀茂役君と秦役君の
関係を理解するのに不可欠な要素でもあります。
その話は別の機会に回すとして、金峯山から熊野にかけて、
貴重な薬草の自生地でした。
伊吹山、御嶽山、白山、出羽三山、比叡山周辺も同様です。
修験の行場と貴重な薬草の自生地は、概ね同じ場所です。

次回は、少しだけ神農と柱源の密接な関係を解説したいと
思います。
気持ち的には、智証大師の話に入りたいのですが、聖護院の
増誉大僧正と延暦寺との複雑な関係を説明しなければならず、
伝教大師の正当な継承を巡る山門派と寺門派の対立問題を
含みます。
機会があれば特集を組みます。

役行者2 -1


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08 : 58 : 12 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑

柱源神法の紹介⑥

 画像は、キンベル美術館所蔵の役行者像です。
これから、役行者について解説を進めますが、
仏像には、それぞれ、込められた願いがあり、
その願いは、様々な形として表現されています。
仏像の表す様々な形が参拝者の心に伝わると
意外なことに気が付きます。
この一種の閃きの様な感覚が、仏像の持つ不思議な
魅力でもあります。
先ず、この話を進める前に、醍醐寺成身院の
齋藤明道先生から伺った話を例に進めます。
齋藤先生は、醍醐聖天党と醍醐山清瀧党に推薦を
して下さいました恩師です。

 下の尊像を先入観なしでジックリご覧ください。
すると、ある疑問が生じます。
「この風変わりな装束の仏像は、誰なのか?」
通説では、役行者とされています。
「左手に持つ巻物には、何が書かれているのか?」
通常は、経文だろうと思います。
年代により多少の差異はありますが、役行者像の
典型的なタイプは、この形式です。
良く見ると頭巾姿は、婆藪仙人と良く似ていて、
役行者像の多くは、この婆藪仙人がモデルです。
とりあえず、知りたくなるのは、
「この姿を役行者と見なす根拠は何処ですか?」
実は、この疑問点が柱源神法の口頭試験問題の
一部です。

初めて、役行者像をジックリ見たのは石山寺の尊像で、
前鬼後鬼の有無は違いますが同じ型式の行者像です。
齋藤先生からの出題は、石山寺の役行者像を参拝して、
感想を述べるようにとの口頭試験でした。
この時、石山寺の御厚意で特別に尊像を参拝させて
戴けました。
当山派の柱源を継承するには、基本的な知識に加え、
ある種の閃きで気付かないと不合格になります。
ところが、これだけでは済まず更に別の難関が待ち
受けている非常に狭い門です。
内心は、初伝なら無試験の方が良いと思っています。

 さて、先入観を捨て、次の問題が解けると答えが、
明確になります。
「この尊像は、賀茂役君ですか、秦役君ですか。」
人によっては、葛城役君との回答もあり得ますが、
理由を付けて説明できれば、葛城役君でも正解です。
柱源の祖師である法道仙人の姿を模倣するのは、
秦流と賀茂流が中心で、葛城流もありえます。
残念ながら、葛城流柱源の話は伝わっていないので、
葛城流のことは明確に分かりません。
この時代の中臣方と三輪方は、先祖伝来の信仰に
対する姿勢を変えていないので僧形を真似しません。
しかも三輪方は山岳修業ではなく、御神体の山を
参拝する修行方法です。

役とは租庸調の歳役を指すもので、君は姓(かばね)、
有力豪族に課せられた公役を束ねていた一族の長を
君と称しますが、この方は官職に就いた官人です。
役行者とは、公役を行う者との意であり、この中には
一般人も含まれています。
そこで、問題と成るのは、役君は僧装束まま山中で
何をしていたのか、この疑問が山場となります。
次回は、この続きから始めます。

役行者5

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08 : 30 : 36 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑

柱源神法の紹介⑤

 画像は、三十三間堂で二十八部衆の一尊として
祭られる婆藪仙人です。
三十三間堂は天台宗寺院、正式名称は蓮華王院です。
この仏像のモデルは、法道仙人であるとの口伝が、
生駒山に伝わっています。
その経緯を紹介しましょう。

 法道仙人直伝の柱源法流は、大きく分けると
元興寺相伝と他家相伝に分かれます。
秦流方術は法道仙人直伝で、中臣方と三輪方は元興寺
道昭法師相伝です。
大きな違いは、易占に仏教的な解釈を多く加えるのが
元興寺相伝、道家的な解釈の多いのが秦流柱源の
特徴です。
実は、この相伝に少々複雑な問題が絡んでいて、
賀茂役君小角行者の相伝は、法道仙人直伝なのか、
元興寺道昭法師相伝なのか、ハッキリしない点が
あります。
この違いが時代と共に進むと、三宝荒神、蔵王権現、
金剛童子の感得の問題が絡み、祭儀の法式に大きな
違いを生じたため流派問題が起きます。
例えば、当山派では、何故、蔵王権現でなく金剛童子を
役行者感得にするのか、三宝荒神を感得したのは誰か、
牛頭天王と法道仙人の関係は何処にあるのか等々あり、
神仏習合に大きな影響を及ぼしています。

 道昭法師が唐から帰朝した斉明天皇6年前後頃、
西暦660年頃になりますが、唐から持ち帰った紙、
硯、墨、筆を用いて、柱源の祖である法道仙人の
姿絵を描いたそうです。
その姿絵は、秦流方術を極め仙人と認められる験力の
持ち主だけに、秦流柱源の祖師の姿絵を明かし免許
皆伝の証としました。
秦流方術では、以心伝心による口伝伝授が基本であり、
印信や折紙はありませんが、この絵は例外的な扱いです。
伝教大師も秦流柱源の免許皆伝に成りましたので、
秦宗家から写絵を授けられ、延暦寺では柱源法流の
相伝者のみが、この写絵を見ることが許される秘中の
秘とされていました。

後白河天皇が、三十三間堂を建立する際、婆藪仙人の
モデルを法道仙人にしたのは、後白河天皇が秦流柱源の
奥義を会得されたので、法道仙人の写絵をご覧になり、
祖師を婆藪仙人になぞられ仏像を造立されました。
それ故、秦流柱源を修めた者は、法道仙人と同体である
三十三間堂の婆藪仙人を参拝する習わしとしました。
法道仙人一行は複数人いたので、誰が法道仙人なのか、
三十三間堂の婆藪仙人を参拝しない限り祖師の尊顔を
知らない訳です。

ここで、流派の大問題が生じます。
三井寺相伝の柱源は、誰を祖としているのか、
この点が修験の定義に大きな影響を与えます。
開祖が、賀茂役君小角行者だとすれば賀茂流です。
本山派修験の開祖は、賀茂役君小角行者となりますが、
当山派の柱源は、元興寺道昭法師が開祖であり、
秦流柱源の開祖は、法道仙人となり、それぞれに、
流派の開祖は異なります。
修験を柱源法流で捉えた場合、賀茂役君小角行者の
存在意義は、流派により自ずと異なります。
次回は、役行者の解説に入りたいと思います。

婆藪仙人1 (2)-1

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08 : 40 : 47 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑

柱源神法の紹介④

 画像は、法華山一乗寺所蔵の国宝最澄像です。
この法華山一乗寺の開山は、法道仙人です。
伝教大師の柱源伝承を知らずに修験は語れないので、
柱源諸家の口伝と生駒山との関係を紹介します。

 道昭法師の入唐を援助した加茂宗家、三輪宗家、
秦宗家には、それぞれ、柱源が伝わり、賀茂家の
相伝は、独自の工夫を重ねながら家伝の易占として、
門外不出とした後、他の占いも取り入れ陰陽道へと
発展させました。
賀茂流の系譜は、陰陽道だけでなく神道と修験にも
及び、別々に分類するには境界が曖昧なので判断の
難しい面があります。

三輪宗家の相伝は、独自の工夫を加え法相教学と
融合させながら三輪山流神道へと発展させました。
中臣方相伝も三輪山流に合流しています。
醍醐寺へ相伝した水輪は三輪方とされています。
現在、生駒山修験にも相伝されています。

秦宗家の場合、他家の相伝とは違い口伝や独自の
工夫を加えず、仙人から相伝されたまま秦流方術の
易占術の一つとして伏見大社と松尾大社にも相伝
させました。
法道仙人は、玄奘三蔵から教えを受けたとされ、
玄奘三蔵が学んでいたのは、道家の流れを汲む易術で、
用いる水輪は、玄奘三蔵が旅先で使っていたものと
同じ型式との口伝です。
生駒山修験でも、形を変えず方術のまま相伝しています。

秦流方術の聖地は、生駒山を本拠地にしていたので、
法力随一の千里眼と言われた生駒山の秦仙人が、
秦流柱源を伝教大師に伝授すると大師相伝の流れは、
叡山門外不出の秘伝とされました。
伝教大師は瞬く間に秦流柱源の奥義全てを会得したと、
生駒山には伝わっています。

伝教大師は、聡明で人徳に優れ、特に薬草の知識と
易には非凡な才があったとされ、秦宗家が次期入唐の
人材として援助していました。
大師が入唐した際、寒冷地でも実る米を日本へ持ち帰り、
その恩恵は、今日に至るまで続いています。
入唐費用の殆どを新種米探しに当ててしまい天台山への
手土産は僅かだったそうですが、易の深い知識により、
天台山の衆僧から大歓迎され尊敬を集めたそうです。
大師の帰朝後も天台山から再度の来山を乞われるほど、
伝教大師への崇敬の念は止みませんでした。

残念ながら、伝教大師直伝の柱源は、織田信長の叡山
焼き討ちで、全て焼失しました。
叡山では、この伝教大師直伝の秘術を受け継ぐ者は、
山門を出てはならない掟があり、相伝者は誰一人逃げず、
小坊主までもが法華経を唱えながら、燃え盛る御堂と
運命を共にしたと口伝されています。
生駒山修験は、叡山と織田方の生駒家を通じて、双方に
和睦を説得しましたが、功を奏さず惨憺たる結果と成り、
この出来事の口伝が伝承されています。
機会があれば、叡山焼き討ち当日の様子を綴りたいと
思います。
次回は、法道仙人の逸話を紹介します。

最澄1 (2)-1

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09 : 14 : 25 | 柱源神法 | コメント(0) | page top↑
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プロフィール

上村俊顕

Author:上村俊顕
生駒山修験中興第三世宗家座主
生駒聖天党法呪師部大阿闍梨位
醍醐山清瀧党法務
生駒山宝山寺八王子分院
施法院院主                

生駒聖天党の灌頂大阿闍梨と
法務を兼務しています。
醍醐山清瀧党の法務担当です。
プロフィール写真は、清瀧党の
中でも雙龍秘伝を授けられた
者のみが許される印です。
得意は、歓喜天浴酒供です。
当山派生駒山流両部修験神道の
宗家と座主を兼務する傍ら、
柱源法流を受け継ぎ、秦流方術の
広報と興隆にも力を入れています。

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