画像は、茨城県ひたちなか市の酒列磯前神社所蔵の
少彦名命画です。
この絵は思い出深く、富岡八幡宮の故富岡茂永宮司から、
カメラで写したアップ写真を戴いたことがあります。
向かって左下の岩の上にいる小人の神様が、日本では
酒造りと医薬の神である少彦名命です。
甘露酒や聖天浴酒供とも密接な関係があり、御神酒の
扱いは非常に大切です。
鑑真和上の戒律が来朝する以前は、仏前でも供物に
しており、両部修験神道では、現在でも供物にします。
不飲酒の戒律に関しては、議論の対立はあるものの
律に抵触する場合は控えた方が宜しいものと思います。
柱源神法と酒造りは関係ないように思えるのですが、
重要な秘密が隠されています。
その一例として、男酒と女酒の違いを挙げておきます。
現在の日本酒醸造は、日本各地で概ね同じ行程だろうと
思いますが、古代では決定的に異なり、風味にも大きな
違いがありました。
古代日本では、精錬技術が低く鍛造も未発達な状態で、
鋭利な刃物が作れなかった時代には、樽などの木製の
酒造用具が作れず、酒造りに利用できる道具といえば、
壺や瓶の様な土器の焼物を使い酵母による発酵を利用
して酒造りを行いました。
酒を造る時に使う原料は、米と水が基本と成ります。
その他にも、果物や蜂蜜を使う場合もありますが、
御神酒の場合、米を主原料とする場所が多い様です。
先ず、玄米に近い米を粥状にしてから自然発酵させ、
どぶろくにして行く方法が男酒です。
生駒山で方術の修行をする男達が、この方法で酒を造り、
御神酒としていました。
別名、神農酒と伝わっています。
アルコ-ル度数の高い辛口の酒で、薬の一種です。
この方法とは違い蒸した玄米の様な米と元に成る種醪を
混ぜ合わせ自然発酵させながら、どぶろくにする
方法が、三輪山の女酒です。
別説では、山葡萄と蜂蜜で作る酒を女酒と言いますが、
一種の甘露酒です。
別名を醸酒と呼び、八岐大蛇を退治した時に使われた
酒と同じ製法です。
この醪に甘い酒を造る秘密があり、三輪山の秘伝です。
こちらは、巫女達が甘い酒を造り御神酒としました。
三輪山の御神酒は、噛み酒ではなく酵母による発酵です。
同じ様に思えるかも知れませんが、麹の使い方が全く
異なります。
賀茂氏は醸酒を御神酒にしますが、山神様に供えるので、
米麹を多く使い女人禁制にしたようです。
基本的に、山神様には田畑海の産物を供えました。
酒蔵で女人禁制にしていたのは、専ら賀茂氏の酒蔵であり、
酒の作り方を教えた神様が三輪氏とは異なるためです。
秦氏の場合、巫女達も酒造りを行い生駒山の御神体に
御神酒として供えました。
生駒山の御神体は、男山と女山に分かれていて、これが、
男酒(前鬼の御供)と女酒(後鬼の御供)の違いです。
秦氏の巫女が作る女酒は、蜂蜜を使い発酵させる方法で、
酒造りの系統は、牛頭天王派と稲荷派へ分かれますが、
灘と伏見の系統の違いになります。
御神酒にも系統の違う神様による造り方の流れがあり、
ここに柱源神法の流派も異なる一因があります。
機会があれば、酒神の特集を組みたいと思います。
画像は、奈良県御所市の三光丸クスリ資料館展示の
神農図です。
こちらの会社は歴史が古く、当山派修験の流れを汲む
南朝方の系図です。
御所市は、巨勢氏、葛城氏、賀茂氏、秦氏と所縁のある
土地柄で、修験史では重要な場所です。
柱源神法と神農の関係は重要で、当山派修験の柱源を
継承する場合、口頭試験の出題範囲となります。
その関係で詳しく紹介できませんが簡単に説明します。
西暦649年以前からの習わしだとは思いますが、
神域や霊山の山中に分け入り、産物を収穫できるのは、
男に限られていた場所が多い様です。
逆に、女に限られる場所もあった様です。
この人達は、山に関する知識が豊富で山の仕来たりにも
詳しいのですが、この選ばれた男達の中でも、更に、
隋や唐からもたらされた知識である神農本草経を学び、
山中の草根木皮の収穫を専門に行う集団がありました。
この集団を神農党と呼びます。
神農本草経を捲ると最初に神農像が描かれていて、これが、
神農党と呼ばれる由縁との口伝です。
例えば、秦神農党、賀茂神農党、葛城神農党など各氏族には、
それぞれの特産物があり、朝廷へ租としても納めましたが、
互いに、これらの品物を物々交換していたそうです。
三輪氏のように少名彦命の関係で、神農党を設けない氏族も
ありました。
この神農党の頭は、山に入る時の初めである戸開けと
山を降りる戸閉に儀式を行い、その祭儀の一つが山中で
行う柱源神法式と成ります。
この場合、護摩ではなく供え物を奉げます。
祭儀の供え物は、一般的な場合、米、酒、塩、水ですが、
柱源では、米と水を使います。
結局、米と水で何が作りだせるのか、この部分が大事です。
この儀式を仏式にするか、方術式するか、古式にするか、
それぞれ違いはあるものの山の神に許しと感謝の儀式を
行います。
これ以上は、試験の出題に抵触するので説明できませんが、
ここまでの経緯に柱源神法の奥義が存在しています。
間の話を抜いてしまうとアッサリ簡単に結論は出ます。
柱源を学びたい方は、この間の話を確り考えて戴けば、
必ず奥義まで到達するように法式は組まれています。
西暦649年、秦流柱源の祖である法道仙人が孝徳天皇に
乞われ病気平癒の祈祷により法験を顕わしました。
その際に用いた薬湯の生薬を調達したのが生駒山秦王党と
口伝されています。
法道仙人一行中にいた神農の末裔を称する唐人僧により、
絵図入りの神農本草経がもたらされる以前は、生駒山
秦王党と称していた様ですが、この故実を以って、
生駒山神農党へ改めたと口伝されています。
この唐人僧には、方術の方士説と仏教の法師説があり、
醍醐寺成身院の齋藤先生の説では、法道仙人とは、
唐から来朝した方士の僧名ではないかとの話です。
生駒山口伝では、播磨へ移住したのが天竺の法道仙人
ですが、渡部先生の話も、神戸市灘区周辺の六甲山へ
移住した天竺僧との話でした。
共通説は、三十三間堂に祭られる婆藪仙人のモデルは、
西域から玄奘三蔵と旅を共にした仏教僧の法道仙人です。
生駒山神農党では、西暦649年に秦流柱源の儀式を
行って以来、約1374年間の歴史を重ね現在に至ります。
次回は、余り知られていない柱源と酒神の関係を綴ります。