前回、浴酒供③の続きです。
画像は、生駒聖天秘伝の甘酒です。
製造後21日経過して、表面に少しカビが生えています。
この甘酒の製造方法は、江戸時代の中頃、伊賀の忍びが秘薬として、
生駒山修験と宝山寺に伝えました。
実は、この忍び、葛根湯で有名な阪本漢方のご先祖です。
生駒山修験が大名と合戦寸前に成った時、大量の傷薬と干飯を
調達した人で、他にも、興福寺の僧兵や根来寺から鉄砲隊100丁が
駆け付け、東大寺の僧兵が後詰めとして控えていました。
伊賀勢が各地に触れを出し回ったので、あっと言う間に大名の
兵力より大きく成り、加勢が増え過ぎて朝廷が仲裁に入りました。
この時、興福寺の僧兵が、この干飯で粥を作り甘酒にして大阪から
見物に来た人達に売って、戦費を捻出したそうです。
興福寺の甘酒は、天下一の美味だったそうですが、宝山寺相伝の甘酒は、
余りにも凄すぎる味で、松本貫主も飲めずに浴酒供を断念した程です。
さすがの和田先生も、これには絶句するほどの味で渋い顔でした。
何となくカビ臭く、ヌメリがあって酸味が強いです。
味は悪くても、飲んで害はないとの話ですが、この秘薬は、刀傷に使う
塗薬の材料なので飲用ではないそうです。
今回の浴酒供で使用したのは、上醍醐寺直伝の甘酒で、渡部先生と
同じ製造方法です。
浴酒供は甘粥供養から始まり、弘法大師請来の歓喜双身天供よりも古く、
東大寺の婆羅門僧正菩提僊那の口伝まで遡ると言われています。
生駒山では、山中での排便を控えるために甘粥を修行食としていたそうで
後に伊賀へ伝わり秘薬の原料として発展したそうです。
意外な話ですが、渡部先生は、忍たま乱太郎に出て来る忍術学園の
学園長 大川平次渦正のモデルとの話です。
テレビの放映で、学園長が戸棚に羊羹を隠しているシーンは、
原作者の尼子先生が取材で伝法学院に訪れた時、渡部先生が戸棚から
虎屋の羊羹を茶菓子に出したのを見て驚き、印象に残るシ-ンに
描いたそうです。
何しろ、出涸らしの茶に虎屋の羊羹が付いてくるアンバランスさが、
味わい深かったとの話でした。
羊羹も、歓喜天が喜ぶ大切な供え物の一つです。
2004年5月に渡部先生から生駒山修験の宗家と座主を引き継ぎましたので、
積もる土産話もあり、尼子先生と再会できる日を楽しみにしています。
生駒山修験の正式名称は、当山派生駒山流両部修験神道です。
秦流方術と法道仙人相伝の柱源神法を母体に、興福寺から三輪山流神道を
相伝され、明治5年の修験道廃止令前まで興福寺に属していました。
以後、神仏分離を条件に、明治天皇から初めて修験復興を許されたのが、
当山派生駒山修験です。
