柱源神法の紹介④

 画像は、法華山一乗寺所蔵の国宝最澄像です。
この法華山一乗寺の開山は、法道仙人です。
伝教大師の柱源伝承を知らずに修験は語れないので、
柱源諸家の口伝と生駒山との関係を紹介します。

 道昭法師の入唐を援助した加茂宗家、三輪宗家、
秦宗家には、それぞれ、柱源が伝わり、賀茂家の
相伝は、独自の工夫を重ねながら家伝の易占として、
門外不出とした後、他の占いも取り入れ陰陽道へと
発展させました。
賀茂流の系譜は、陰陽道だけでなく神道と修験にも
及び、別々に分類するには境界が曖昧なので判断の
難しい面があります。

三輪宗家の相伝は、独自の工夫を加え法相教学と
融合させながら三輪山流神道へと発展させました。
中臣方相伝も三輪山流に合流しています。
醍醐寺へ相伝した水輪は三輪方とされています。
現在、生駒山修験にも相伝されています。

秦宗家の場合、他家の相伝とは違い口伝や独自の
工夫を加えず、仙人から相伝されたまま秦流方術の
易占術の一つとして伏見大社と松尾大社にも相伝
させました。
法道仙人は、玄奘三蔵から教えを受けたとされ、
玄奘三蔵が学んでいたのは、道家の流れを汲む易術で、
用いる水輪は、玄奘三蔵が旅先で使っていたものと
同じ型式との口伝です。
生駒山修験でも、形を変えず方術のまま相伝しています。

秦流方術の聖地は、生駒山を本拠地にしていたので、
法力随一の千里眼と言われた生駒山の秦仙人が、
秦流柱源を伝教大師に伝授すると大師相伝の流れは、
叡山門外不出の秘伝とされました。
伝教大師は瞬く間に秦流柱源の奥義全てを会得したと、
生駒山には伝わっています。

伝教大師は、聡明で人徳に優れ、特に薬草の知識と
易には非凡な才があったとされ、秦宗家が次期入唐の
人材として援助していました。
大師が入唐した際、寒冷地でも実る米を日本へ持ち帰り、
その恩恵は、今日に至るまで続いています。
入唐費用の殆どを新種米探しに当ててしまい天台山への
手土産は僅かだったそうですが、易の深い知識により、
天台山の衆僧から大歓迎され尊敬を集めたそうです。
大師の帰朝後も天台山から再度の来山を乞われるほど、
伝教大師への崇敬の念は止みませんでした。

残念ながら、伝教大師直伝の柱源は、織田信長の叡山
焼き討ちで、全て焼失しました。
叡山では、この伝教大師直伝の秘術を受け継ぐ者は、
山門を出てはならない掟があり、相伝者は誰一人逃げず、
小坊主までもが法華経を唱えながら、燃え盛る御堂と
運命を共にしたと口伝されています。
生駒山修験は、叡山と織田方の生駒家を通じて、双方に
和睦を説得しましたが、功を奏さず惨憺たる結果と成り、
この出来事の口伝が伝承されています。
機会があれば、叡山焼き討ち当日の様子を綴りたいと
思います。
次回は、法道仙人の逸話を紹介します。

最澄1 (2)-1

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プロフィール

上村俊顕

Author:上村俊顕
生駒山修験中興第三世宗家座主
生駒聖天党法呪師部大阿闍梨位
醍醐山清瀧党法務
生駒山宝山寺八王子分院
施法院院主                

生駒聖天党の灌頂大阿闍梨と
法務を兼務しています。
醍醐山清瀧党の法務担当です。
プロフィール写真は、清瀧党の
中でも雙龍秘伝を授けられた
者のみが許される印です。
得意は、歓喜天浴酒供です。
当山派生駒山流両部修験神道の
宗家と座主を兼務する傍ら、
柱源法流を受け継ぎ、秦流方術の
広報と興隆にも力を入れています。

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