画像は、三十三間堂で二十八部衆の一尊として
祭られる婆藪仙人です。
三十三間堂は天台宗寺院、正式名称は蓮華王院です。
この仏像のモデルは、法道仙人であるとの口伝が、
生駒山に伝わっています。
その経緯を紹介しましょう。
法道仙人直伝の柱源法流は、大きく分けると
元興寺相伝と他家相伝に分かれます。
秦流方術は法道仙人直伝で、中臣方と三輪方は元興寺
道昭法師相伝です。
大きな違いは、易占に仏教的な解釈を多く加えるのが
元興寺相伝、道家的な解釈の多いのが秦流柱源の
特徴です。
実は、この相伝に少々複雑な問題が絡んでいて、
賀茂役君小角行者の相伝は、法道仙人直伝なのか、
元興寺道昭法師相伝なのか、ハッキリしない点が
あります。
この違いが時代と共に進むと、三宝荒神、蔵王権現、
金剛童子の感得の問題が絡み、祭儀の法式に大きな
違いを生じたため流派問題が起きます。
例えば、当山派では、何故、蔵王権現でなく金剛童子を
役行者感得にするのか、三宝荒神を感得したのは誰か、
牛頭天王と法道仙人の関係は何処にあるのか等々あり、
神仏習合に大きな影響を及ぼしています。
道昭法師が唐から帰朝した斉明天皇6年前後頃、
西暦660年頃になりますが、唐から持ち帰った紙、
硯、墨、筆を用いて、柱源の祖である法道仙人の
姿絵を描いたそうです。
その姿絵は、秦流方術を極め仙人と認められる験力の
持ち主だけに、秦流柱源の祖師の姿絵を明かし免許
皆伝の証としました。
秦流方術では、以心伝心による口伝伝授が基本であり、
印信や折紙はありませんが、この絵は例外的な扱いです。
伝教大師も秦流柱源の免許皆伝に成りましたので、
秦宗家から写絵を授けられ、延暦寺では柱源法流の
相伝者のみが、この写絵を見ることが許される秘中の
秘とされていました。
後白河天皇が、三十三間堂を建立する際、婆藪仙人の
モデルを法道仙人にしたのは、後白河天皇が秦流柱源の
奥義を会得されたので、法道仙人の写絵をご覧になり、
祖師を婆藪仙人になぞられ仏像を造立されました。
それ故、秦流柱源を修めた者は、法道仙人と同体である
三十三間堂の婆藪仙人を参拝する習わしとしました。
法道仙人一行は複数人いたので、誰が法道仙人なのか、
三十三間堂の婆藪仙人を参拝しない限り祖師の尊顔を
知らない訳です。
ここで、流派の大問題が生じます。
三井寺相伝の柱源は、誰を祖としているのか、
この点が修験の定義に大きな影響を与えます。
開祖が、賀茂役君小角行者だとすれば賀茂流です。
本山派修験の開祖は、賀茂役君小角行者となりますが、
当山派の柱源は、元興寺道昭法師が開祖であり、
秦流柱源の開祖は、法道仙人となり、それぞれに、
流派の開祖は異なります。
修験を柱源法流で捉えた場合、賀茂役君小角行者の
存在意義は、流派により自ずと異なります。
次回は、役行者の解説に入りたいと思います。