先ずは、『続日本紀』から役行者像を紐解きたいと思います。
『続日本紀』は、文武天皇元年(697年)から桓武天皇の
延暦10年(791年)までの記録を扱う勅撰史書です。
延暦16年(797年)に完成しました。
『続日本紀』によると、役小角は文武天皇3年5月24日に、
伊豆大島に流罪となりました。
西暦699年6月29日の出来事です。
流罪の理由は、呪術で人々を妖惑したと密告された様です。
どのような事を起こしたのか不明ですが、島流しの罪人を
外従五位下の韓国広足は、師としていたと記されています。
この当時の常識では、有得ない話です。
韓国広足は、神亀年間(724~729)に、典薬寮の呪禁師を務め、
天平3年(731年)1月27日に外従五位下、翌4年(732年)
10月17日には典薬頭に任命されています。
恐らく、729~731年頃は、呪禁博士だろうと思われます。
この方の祖は、物部氏ですが、厭魅(呪いを防ぐために学ぶ呪術)
蠱毒(呪いをかけるために学ぶ呪術)を扱う専門職でした。
早い話、解毒薬と毒薬の生薬を取り扱います。
現代的に言えば、一種の催眠療法も行った様です。
史書に描かれているのは、ここまでの内容だけです。
逆に、ここまでの記述で読み解けるのは、呪禁師である
韓国広足の師匠は役小角なので、役小角も呪禁師です。
呪禁師なのですから、分類としては神仙方術士になります。
よって、雲に乗り空を飛ぶ逸話は、奥義を極めた者への
敬意を込めた伝説との答えが導けます。
実は、この話、生駒山相伝の口伝でもあります。
ところが、史実の文字だけを解釈していると話に無理が出て、
思わぬ大問題が生じるのです。
「典薬頭が流罪となった罪人を師と仰ぐのか?」
「そもそも、師匠を密告して罪人にするなど有得ない!」
「方士なのに、優婆塞なのか?」
「蠱道は、修験に含めても良いのか?」
「役行者が蔵王権現を感得した事は、どう扱うのか?」
「これだと柱源神法護摩の役行者相伝説が否定される!」
「山岳修業と冬山登山は、どちらが厳しいのか?」
「修験と両部神道及び山王神道の違いは何処か?」
他にも、多くの疑問や矛盾を抱えだして修験が成立しなくなり、
困った事に、古代の神道と古代の方術の境が曖昧になります。
ここで、更に別の道に派生するのが、「神道とは、何ですか?」
こちらの疑問点にも枝葉が伸びてしまい、江戸時代末期には、
慈雲尊者が葛城神道を提唱しました。
疑問点を明確にしようとすると別の疑問点が湧いて出て、
「鶏と卵は、どちらが先か問題」と同じ様相に陥ります。
そこで、役行者が生きていた時代的背景や時代の隙間を
埋める別の宗教指導者の存在を理解しないと話が一向に、
前へ進みません。
次回から、『日本霊異記』の記述も併せながら、更に深い解読を
進めて行きます。